インタビュー - 熱海経営者特集 PR

【静岡県熱海市】「大事なのは人との信頼関係」吉野屋商会社長・茶田勉から溢れ出すのはスタッフへの愛と…。

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熱海と言えば思い浮かぶのは、「温泉」「旅館」「ホテル」「保養所」。

それらの場所を縁の下で支える会社の存在を、観光客として訪れた私たちが意識することはありません。

しかし、熱海が「熱海」という観光地として成り立っているのは、観光業を裏でサポートしている人たちがいるからこそでもある。

今回は、そんな会社のひとつ「有限会社 吉野屋商会」の社長に、お話をうかがってきました。

茶田 勉(ちゃだ つとむ)
1962年生まれ、熱海市出身
有限会社吉野屋商会 代表

吉野屋商会は、タオル・歯ブラシ・割り箸などのホテル旅館用品の卸問屋。その社長・茶田勉さんは、筆者が熱海に住んでいたときの大家さんでもあります。

お話をうかがった場所は、まさに当時住まわせてもらっていた建物。

懐かしい気持ちを抱きながら、熱海で事業を始めた経緯や、幾度となくあったであろう苦難の話、会社を継ぐことへの葛藤、そして、経営者として大事にしていることなどをお聞きしてきました。

(聞き手:りょうかん)
取材日:2018年6月2日

この街のポテンシャルは「観光」ではないのかもしれない。【静岡県熱海市】の経営者特集、はじめます。「熱海が盛り上がってるらしいね」 ここ数年の間にこの言葉を何度聞いたことだろう。統計データ上でも2011年を底にして観光客数はV字回復...

食べるもの以外の商品は一通り揃う卸問屋。

── 今日は懐かしい場所での取材、ちょっと緊張してます。まずは自己紹介をお願いしてもいいですか?

茶田 なんか緊張するね(笑) 熱海生まれ、熱海育ちの、茶田勉(ちゃだつとむ)と申します。ホテル旅館用品の卸問屋の「有限会社 吉野屋商会」の社長をしてます。

── 吉野屋商会を継ぐまでの経歴も簡単に聞いていいですか?

茶田 沼津の商業高校を卒業したあと、商売をしていた親父の跡を継ぐべく大阪のタオル商社(メーカー)に就職して丁稚奉公してました。その会社で4年近く勤めから熱海に帰ってきたのかな。で、親父と一緒に「吉野屋商会」の仕事をするようになりました。

── そこからはずっと熱海で働かれてると。会社を継いだのはいつ頃になるんですか?

茶田 熱海に帰ってきたのが、昭和59年の12月。それから、翌年の3月に大阪の会社の同期の彼女と結婚して、それから吉野屋商会の跡取りとして働いて。それで、平成17年に代表取締役として親父の跡を継いだ感じかな。

── 代表に就いてから10数年。会社の創業はいつになるんでしたっけ?

茶田 えっとね、元々はこの場所でうちの爺さんが製材所をやってたんだ。高度経済成長期の昭和30年代、熱海ではオリンピックに向けて旅館がボンボン建てられていたから、その建築屋さんに材木を売っていたらしい。

だけど、お金を払ってくれないところもかなりあったようで、持っていた土地を切り売りしながらやり繰りしてたみたいでね。そのままでは厳しいということで親父が継ぐ時に「割り箸屋」に変わることにして。

── 割り箸屋ですか。なぜ「割り箸」を…?

茶田 親父たちは割り箸の発祥の地・奈良県吉野郡下市町の出身なの。それで自分たちの生まれ育った土地から仕入れた割り箸を旅館に販売する事業に変わろうと。

── じゃあそのときに製材材木店から「吉野屋商会」に?

茶田 そうだね。当時は「吉野屋割箸店」という名前で。そこから昭和44年9月に有限会社化して「吉野屋商会」になったのかな。たしか俺が小学校1年生ぐらいのとき。

── 最初は割り箸だけだったんですね。

茶田 最初は割り箸だけ。だけど卸先の旅館や保養所から「一軒の店から全部仕入れられた方が楽だから」とタオルや洗剤、アメニティグッズ(歯ブラシ、化粧品、カミソリなど)を求められるようになってきて、それで徐々に取り扱い品目も増えていった。

リクエストに応えられるようにしていかないと商売として成り立っていかなかったからね。有限会社化した時には、すでにいろんなものを扱っていたと思う。

── 当時と比べると、今も取り扱い品目は増えていってるんですか?

茶田 そうそう。さらに増えて、トイレットペーパー・紙関係・業務用の洗剤・厨房機器・鍋釜包丁食器類・布団・業務用の家具なんかまで。今年は保養所でカラオケ室のソファーの入れ替えなんかもあったよ。

── めっちゃ幅広い!! なんでも取り扱ってる感じなんですね。

茶田 あと、病院や介護施設に来院者用の使い捨てのスリッパとか。食べるもの以外の商品は一通り揃うかな。

プールやお風呂に使う次亜塩素酸系の薬品の自社名を入れたものまで作ったりしてるんだけど、夏の時期は20kgのケースが100個とか入ってくるから、朝の荷下ろしが大変でさ(笑)

── 20kgが100個…(笑) 取引先は熱海の施設が多いんですか?

茶田 熱海だけじゃなく、東伊豆・南伊豆まで。

── となると、かなり広範囲ですよね。何人で配達してるんですか?

茶田 営業・配達業務を兼ねてやってくれているのが3人いて、計4人で分担して回ってる。2人が東伊豆から南伊豆ぐらいまでを担当してて、もう1人は熱海市内・湯河原・真鶴あたり。で、僕は全体のバランスを見ながら、市内のフォローと箱根・沼津・三島・中伊豆方面に。

高校進学のときに跡を継ぐ覚悟を決めた。

── 会社を継ぐことは、いつ頃から意識されてたんですか?

茶田 兄貴がいるから、小さい頃は自分が商売を継ぐとは思ってなかったかな。普通は長男が継ぐって思うじゃん。だから呑気に調子よく生きてた。

なんだけど、ある時から兄貴が勉強に目覚めてしまって、学校の先生になるって言い始めちゃった。そのときの親父はめっちゃ寂しそうで…。

── お父さんの気持ちは複雑ですね。その当時、茶田さん自身は将来やりたいことはなかったんですか?

茶田 演劇とかの舞台の大道具や小道具を作る仕事がしたいと思ってたの。それで「美術系の大学に行きたい」って言ったんだけど、「そんな世界で食っていけるのはこれっぽっちもいねぇんだぞ!馬鹿野郎!」とボロクソに怒られて(笑)

── えー!!でも、そう言われてすんなりと受け入れられないですよね?

茶田 そう。だけど、自分なりにいろいろと考えたの。

当時、絵を描いたり字を書いたりするのが好きだったんだけど、飲食店を新規オープンするお客さんから「箸袋に絵を描いてほしい」というリクエストを親父が受けてきててさ。その絵を任してもらえて、描いたらお客さんが喜んで採用してくれたことがあったの。

── おぉ!すごい!

茶田 それがめちゃくちゃ嬉しくて(笑) そこから「マッチ箱のデザイン」とか「箸袋に筆で文字を書く」みたいな作業を親父から頼まれるようになってさ。

これなら自分の好きなことをこの商売にも活用できるかもしれないと思っちゃって。それで大学に行かずに早く仕事に就きたくなって商業高校に行こうと決めたの。

── じゃあ高校進学時点で、継ぐ決心を固めてたんですか?

茶田 そうそう。高校を選択するときには、跡を継ぐと覚悟を決めた。

── かなり早い時期に感じるんですけど、葛藤はなかったですか?

茶田 やっぱり美術系のことがしたいという想いはあったけどね。

小学校の頃とかに学校に劇団が来て演劇をすることがあるじゃん。あれがすっごい好きだったの!みんなで作り上げる達成感とか、みんなに喜んでもらうことを求めてたんだろうね。

でも、ちっぽけな絵ひとつでも喜んでもらえることに喜びを感じてきてさ。

── その喜びが茶田さんの中では大きな原体験だったんですかね。高校を卒業したあとは、大阪のタオル商社に就職されたんですよね?それはなぜだったんですか?

茶田 親父は割り箸の名産地で育ったから割り箸のことはわかるし、消耗品などの一般の仕入れ商品はその都度メーカーさんから聞けばある程度理解できる。

だけど、タオルだけは種類も豊富だし奥が深くて。それで親父から「タオルの勉強をしてこい!」と。

── そういうことだったんですね。でも、熱海から近い東京で就職する選択肢もあったんじゃ…?

茶田 商売の勉強も同時にするなら東京よりは大阪かなと。タオルの三大産地「大阪泉州・愛媛今治・三重津」のひとつでもあるしね。それで大阪に行きました。

継いだのはメインバンクが破綻した大変な時期。

── 代表取締役を交代する(会社を継ぐ)というのは、どういうきっかけで決まったんですか?

茶田 親父から自然に「そろそろ…」と。すごくナチュラルに世代交代してくれた。

一代で吉野屋商会を立ち上げた人だから「元気なうちは俺がやりたい」と言うタイプだと思ってたんだけど、すごく自然に引いていってくれたのが意外だったね。

── 具体的にはどんな風に世代交代していったんですか?

茶田 俺の目の前じゃ絶対に言わなかったんだけど、引き継ぐ前後の頃に色んな人に「勉が継ぐからよろしく頼む」とお願いして回ってくれてたっぽくて。あと、それまでは親父が行っていた場面で自然と「お前が行ってこい」って言ってきたり。

今振り返ると、それがすごく上手かったと思う。俺はどこに行っても「親父あっての息子」という目で見られてたけど、親父が一歩引き始めたから自然と社長としての立ち振る舞いをしなきゃいけなくなったからね。

── それはたしかに自然な世代交代かも。でも、代表に就任してから苦労したこともあったんじゃないですか?

茶田 代表を交代したタイミングというのが、とても大変な時期でさ。当時メインバンクだった中部銀行が破綻しちゃったタイミングで引き継いだの。なんでこんな大変な時期に…、と思ったね。

── めっちゃ大変なタイミングじゃないですか……。

茶田 中部銀行で借りてたお金を他の銀行で借り換えて整理することが、社長としての最初の仕事だった。

ほとんどの銀行が相手にしてくれない中、静岡銀行の駆け出し2年目の子が親身になってくれてね。お互いわからないなりに必死に勉強して、なんとかかんとか3ヶ月かけて融資の実行が決まってさ。

親父も口を出したくてしょうがなかったと思うんだけど我慢してくれてて。これをやり切ったことで親父からもちょっと認められた感じがして嬉しかったね。

── いきなりハードな仕事を乗り切ったわけですね。そこからは順調でしたか?

茶田 そんなこともなく、どこかで親父がいるからと甘えている自分はいたね。自分が商売と人との関わりを楽しみながらできるようになったのは40代半ば過ぎてから。で、さらに意識が変わったのはここ2年ぐらいかな。

── それはどういう意味で意識の変化があったんですか?

茶田 自分だけじゃなく、社員に対しての気の使い方の部分かな。どこか気を使いすぎていたんだけど、そうじゃなく一緒に会社を良くしていかなきゃいけないんだと思うようになってきた。

この社員とその家族たちを背負ってこの会社を経営しているんだと思ったら、ちゃんと向き合わなきゃダメだなって。

── そう思うようになったきっかけは…?

茶田 きっかけになったのは、同級生の社労士のアドバイスと、キャリアカウンセリングに入ってくれた齋藤めぐみさんの存在だね。

社員たちの想っていることに引き出してくれてさ。「彼らはみんな真面目で社長のことを想ってくれてるよ」と聞いたときに、遠慮して気を使っているばかりじゃなくて、良くしていくためには発破をかけることも必要だし、俺の想いもしっかり語らないといけないなと思った。

そう意識し始めてからの2年間、不思議なことに売上がちゃんと右肩上がりになってるんだよ!本当に不思議なんだけど。

── それはすごいですね!! いわゆる「社員教育」のようなことですよね?

茶田 そうだね。同級生の社労士が「社員教育に使える助成金があるよ」と紹介してくれてさ。それで社員教育に力を入れてみたんだけど、やっぱり言えば響くんだね。

良いものを、良いものとして、売りたい。

── 事業をしている中で「吉野屋商会」の強みはどこに感じてますか?

茶田 正直、うちの扱っているものはネットショップで買えちゃう時代。旅館ホテルの経営者からすれば少しでも経費を節約したいだろうし、アスクルみたいなところから買うことが多くなるのはしょうがないと思うんだ。

だけど、ネット経由だと相手が糠(ぬか)に釘みたいな感じになっちゃう。その点、うちは苦情を聞ける人間がいる。商売の最後のところは声の届く息のかかる範囲というのがすごく大事になると思うから、「人の距離感」という部分は強みかなと思う。

── 営業配達のスタッフと卸先の人の信頼関係というのは、一朝一夕には築けないですもんね。

茶田 そういうことだよね。お客さんのところに毎日のように顔を出して、倉庫の状況を見ながら「これ減ってますけど、そろそろ入れましょうか?」と聞いたり、雑談の中で「こんなものない?」と言われたものを探して提案したり。

そういう小さな積み重ねで「こいつなら信頼できる」と思ってもらえる営業マンを育てたいし、「だからお前のところで買いたい」と言ってもらえるような吉野屋商会でありたいと思う。

── めっちゃ素敵です! ローカルな商売にとって信頼関係は何より大事ですもんね。

茶田 そうそう。最近嬉しいエピソードがあってさ。

高校卒業してから20年勤めてくれてる社員がいるんだけど、最初は大人しくて積極的に人と話ができるような人じゃなかったの。そんな彼が、たった1件で平均月売上の半分ぐらいの契約を取ってきてさ!

それだけの金額の契約を取れるのは、そこに信頼関係が築けてたからこそだと思んだよね。20年かかったけど、ちゃんと育ってくれてるのがものすごく嬉しかった。

── めちゃくちゃ良いエピソード!取引先との信頼を築いてくれてるのが何より嬉しいことですね! 逆にこれからの課題は何か浮かんでいますか?

茶田 そうだね。やっぱり良いものが売れるようにならないとは思ってる。良いものを欲しいと言って買ってもらえるような流れを作っていけるかどうか。それは俺らの努力するべきことかなという気持ちはあるかな。

── 「良いものを売る」ですか。

茶田 実は、去年の正月に吉野の箸屋さんにコーディネートしてもらって、杉の山や割り箸の製造工場を全部回ってきたんですよ。そうやって作り手の顔を見ると、そこに想いを感じちゃう。

あれだけの行程を経ても「1本1円何十銭」の世界。それって何か間違ってる気がして。良いものは良いものとして、ちゃんと売りたいなって思うようになってきた。

── 確かに作り手の顔が見えると、想いが違ってきますよね。

茶田 安くてもいいものも世の中にはいっぱいある。でも、中国の割り箸とかと比べれば、使いやすいし、香りも良い。

箸以外でも、良いものは長持ちするし、愛着も湧く。それだけの価値をちゃんと見出せるか。その価値観を伝える努力はしていかなきゃいけないと思う。

その伝える努力を僕らが怠ってきたから、とにかく安いもの安いものと道具化しちゃっただけなんだと思ってて、それを取り戻さなきゃいけないのかなと。

── 言われてみれば、割り箸も含めて「モノ」の良し悪しやその裏のストーリーを意識する機会はあまり無いかもしれないです。具体的にはどう伝えていこうか考えてらっしゃいますか?

茶田 やっとこさ会社のホームページを作ってるんだけど、そこに「社長のブログ」を書こうと思ってて。そのブログに「取扱商品に対してのこだわり」とか「人に伝えたい想い」みたいなことを更新していこうかなって。

自分の勉強にもなるし、社員に対して情報や想いを伝えることもできるかもしれないしね。

── それはとても良いですね!! 社員に向けての発信としてブログを活用するのは、かなり有効だと思います!

茶田 いろんな人と知り合って、いろんなご縁をもらって、自分の中でも経験と年齢を重ねて、商売を親父から継いで山あり谷ありでやってきたから、「この先に何を」という問題意識を持つようになったよね。で、それを解決するためには、まず自分が意識を持って、自分が動くしかない。

その思いをいかに社員に伝えて、社員がどう受け止めて動くか。このサイクルが出来なければ、会社も社会も回っていかないということなんだろうなって。

── 茶田さんと吉野屋商会の今後が、とても楽しみな気持ちになりました! 熱海への想いなどまだまだ聞き足りないですが、時間が来てしまいました。今日は長時間のインタビューを受けていただいて、本当にありがとうございました! またゆっくりとご飯でも行きましょう!

茶田 勉(ちゃだ つとむ)
1962年、静岡県熱海市生まれ。沼津商業高校を卒業後、富士株式会社に入社。4年間の修行期間を終え熱海に戻り、「有限会社吉野屋商会」の跡取りとして働く。2005年に代表取締役に就任し、現在に至る。「熱海百万ドル夜景復活計画実行委員会」など熱海の賑わいを呼び戻すための活動も精力的に行う。「ちゃ〜べん」の名前で歌手活動も行なっている。

(この記事は、独自制作した特集記事です)

文章:りょうかん
撮影:小林 浩二

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りょうかん
1990年11月 鳥取市生まれ / ブロガー兼WEBライター / 鳥取と熱海の二拠点生活中 / ✍毎日noteを書いてます / Amazonほしいものリスト / お仕事のご依頼は こちら を参照ください